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「学習障害性ナショナリスト」という悪質な疑似科学的与太話について

■ラカンはどこにいる?
内田氏の「学習障害性ナショナリズム」というエントリーが悪質なのは、政治的プロパガンダにすぎないものを、あたかも「客観的」で「科学的」な洞察を披露しているかのように偽装して、垂れ流されているところにあります。「ナショナリスト」が「学習障害」であるというのは、明らかに「疑似科学的」なディスクールです。「学習障害」という概念が疑似科学かどうかはともかく、それが「ナショナリズム」という概念とあたかも自明であるかのように接続すること自体、典型的な「政治」でしょう。内田氏はラカンの専門家ですが、ラカニアンは「主体の欲望」を「読む」のではないのでしょうか?このエントリーには、「欲望」を「読む」どころか、歪曲されたディスクールの中で内田氏の「欲望」が無造作に垂れ流されているようにしか思えません。一体ラカンはどこにいるというのでしょう?
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■曖昧なナショナリズム
内田氏は
ナショナリズムがほとんどの場合、知性の活動を低下させる
と主張します。しかし、その明確な論証はなされません。どうしてこんな意味不明な与太話を、しらじらしく展開できるのか、正直理解に苦しみます。スキームが固定されてしまうということが、知性の活動の低下であるとすることと、そこにナショナリズムが関係してくることとの間に、何の実証的、論理的関連性が示されないからです。じゃあ、ハイデッガーやカール・シュミットはバートランド・ラッセルより知的に劣っているのでしょうか?ドゴールは毛沢東よりバカなのですか?(笑)

もう少し融和的にこの命題を取り扱ってみましょう。内田氏の「ナショナリズム」という言葉を「宗教」という言葉に置き換えてみます。私たちが「宗教」について思い浮かべる通俗的かつネガティブなイメージは、「強固な信仰によって思考停止に陥っている頑迷な人々」というものではないでしょうか。内田氏は「ナショナリズム」という言葉をこれに近いイメージで解釈しているのかもしれません。つまり、「日本教」みたいなものでしょうか。日本は偉大で崇高な国である、ナショナリストはこうした「根拠のない」信念を維持するために、都合の悪い事実を回避したり、歪めたりするようになり、一種の思考停止状態に陥ってしまいがちだと考えたのかもしれません。

しかし、ちょっと考えてみればこれがおかしいことに気づくはずです。ではナショナリズムの側に身を置かない人々には、こうした思考停止、内田氏の言う「スキームの固定化」は発生しないのでしょうか?そんなことはないですね、「護憲教」などという言葉は、まさに「スキームの固定化」に対する揶揄に他ならない訳です。もちろん、護憲の立場に立つ人はいろいろと「複雑」で「深い」議論を展開していると主張するのかもしれません。しかし、改憲派の側からすれば単なる「レトリックの戯れ」としか思えないわけです。それは内田氏がナショナリストとの対話で、細かい歴史的な史実を突きつけられて不快な思いをした時、それを「ナショナリストの常套手段」とあっさり排除してしまうことと相似かも知れません。他にも、「非武装中立」やらなにやら、ナショナリストではない立場の人たちの「スキームの固定化」は探せばいくらでも見つかるはずです。もちろん本人は決してそれを認めないかもしれませんが(笑)

こうして見てきたとおり、「スキームの固定化」と「政治的態度」との間に関連性などあるはずがないのです。スキームが固定化してしまうリスクは、どんな政治的立場にも存在する、というよりも政治的立場に何の関係もなく存在しているとしか言いようないわけです。


若い人はバカ
内田氏は
若い人たちがナショナリズムに親和的になる理由の過半は、ナショナリストであることはそうでないことよりも政治的問題について考えるときの知的負荷が少ないからである。
と主張しますが、それは明らかに珍妙な論理といわざるを得ません。そして、それは二重の意味で間違っています

学生運動が盛んな時代も「若い人」は「ナショナリズム」に「親和的」だったのでしょうか。あの頃は逆だったのではないでしょうか?この命題の「ナショナリズム」や「ナショナリスト」を「左翼思想」や「左翼」に入れ替えてみましょう。
若い人たちが「左翼思想」に親和的になる理由の過半は、「左翼」であることはそうでないことよりも政治的問題について考えるときの知的負荷が少ないからである。
となります。では、学生運動が盛んな時代は「若い人たち」は「知的負荷が少ないから」左翼思想にコミットしたのでしょうか?そんな訳ないですね(笑)。つまり内田氏が「若い人」が「ナショナリズム」に「親和的」だということと、その理由が「知的負荷が少ないからだというのは二重の誤りだということです。それとも、内田氏は、あの時代の「若い人」は「知的」だけれど、今の「若い人」は「馬鹿」だとでも思っているのでしょうか?

私見を述べさせてもらえれば、「若い人」というのはいつの時代でも「革命的な存在」たらんと志向するものです。見も蓋もない言い方をしてしまえば、今の時代、現時点においては「サヨ」であるより「ウヨ」であるほうが、より「革命的」な選択だということです。その選択は「知的負荷」などという与太話とは、何の関係もありません。つまり自分が生まれ育った状況において、すでにデフォルトでセットされていた統制的なディスクール(物語)を更新しようとするのが、「若い人」の習性であり、本能なのです。そして現在は、超克されるべきデフォルトのディスクールが「左翼的」なものであった、というだけのことに過ぎません。つまり、違う時代に生まれていれば、「今の若い人たち」も「サヨ」だったかもしれないということです。そこに存在するのは「還元不可能な歴史の偶然性」だけです。内田氏は「ナショナリズム」という言葉を「本質化」させすぎています。



知的な振る舞い?
内田氏は、
もう一度繰り返すが、「ナショナリストのようにふるまうこと」はしばしば高度の知的緊張を要求する。だが、「ナショナリストであること」は特段の知的負荷を課さない。
と述べます、私ももう一度繰り返しますが
「ナショナリストでないようにふるまうこと」はしばしば高度の知的緊張を要求する。だが、「ナショナリストでないこと」は特段の知的負荷を課さない。
と繰り返すこともできます。

これで明らかなのは、内田氏の主張は何にでもアプリケートするか、繰り込むファクターを変更したり、異なる状況にスライドさせたりすると、簡単に破綻してしまうかのどちらかである場合が多いような気がします。何にでもあてはまることを、あたかも一方にしかあてはまらないかのように「語る」のは、詐欺的なレトリックにすぎません。また簡単に破綻してしまうようなロジックをあたかも自明の「一般論」のように語るのも同じです。(率直に言うと、内田氏の今回のエントリーは最初からほぼ全ておかしい。しかしエントリーを全体を細かく批判していくなんて、さすがに無理です)

内田氏の欲望
内田氏が展開している論理は、露骨な言い方をすれば、「白人優越主義者」が「黒人は知的に劣っている」と主張する「疑似科学的な政治的プロパガンダ」と変わらないでしょう。内田氏は、何故こんな「疑似科学的」なエントリーを書く必要があったのでしょうか?小泉首相やその支持者の「ナショナリスト」に圧倒され、傷ついている野党支持者の受け皿にでもなるつもりだったのでしょうか?疎外されていると感じている人たちに「俺たちは確かに今劣勢かもしれないが、あいつらは所詮、知的レベルの低い連中で、俺たちはエリートなんだから気にするな」とエールでも送りたかったのでしょうか?現実における劣勢を、「疑似科学的なディスクール」の「言語空間」のなかで「イマジネール」に転倒させて、気持ちよくさせてあげたかったのでしょうか?

結局、内田氏のエントリーにおいて、「スキームの固定化」と「政治的態度」を関連付けさせているのは、「ナショナリスト」は「知的」に劣っていて「ほしい」という内田氏の「欲望」だけです。こうした「欲望」がどこから内田氏に到来したのかは、知る良しもありません。ただ言える事は、このエントリーを速やかに削除すべきではないかということだけです。コメント欄でも指摘されていましたが、これは「知の欺瞞」に他ならないでしょうし、それよりも悪質な何かであるとも言えるでしょう。つまり、このエントリーは自分と異なる、あるいは敵対する政治的な立場の人間を、歪曲した疑似科学的なディスクールを捏造、流通させることによって、ダメージを与え、弱体化させ、葬り去ろうとする、悪質なデマゴギー以外のなにものでもないからです。内田氏は世間では「現代思想の叡智」であり、「第一級の思想家」と認知されている方なのですから、ご自身の社会的影響力を慎重に考慮した上で、適切な対応をなさっていただきたと、個人的に望んでいます
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by SpeedPoetEX | 2006-08-19 05:29 | 政治