Marehitoの溺れる魚は鳥かもしれない

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確信犯の通り過ぎた夏(2) 坂東眞砂子氏の猫

キャットキラー
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Q:一躍、時の人となってしまった坂東氏ですが・・・
M:確かに確信犯ではあるのだけど、坂東氏自身が精神的にかなり厳しいところに来ていて、その結果としてこういうエッセイを書いてしまったとするならば、坂東氏自身のケアも考えた方がいいかもしれない、というのも少しある。

Q:つまり、坂東氏がノイローゼ気味で、自殺する危険があり、話も作り話かもしれないと言うことですか?
M:まあ、そういう可能性もね、完全には捨てきれないでしょう。タヒチだっけ、住んでいるの、家族構成とか、そのへんもどうなのか分からないしね。

Q:文章はそれ自体、しっかりしたものですよ。
M:まあ、内田氏だったら「学習障害性猫殺し」とでも言うのかね(笑)




共生の倫理とパフォーマンス
Q:正直、坂東氏の文章を読んで、第一印象はどうでした。
M:矛盾とかそういうのを全部すっ飛ばしていくと、結局坂東氏のやったことって、避妊手術した猫を抱っこしている人の前に、崖から落として、ぐちゃぐちゃになった子猫の死体を突きつけて、「あんたのやっていることは、こういうことなのよ!」と叫んでいるようなものだよね。

Q:猫に避妊手術を施すことと、産まれたばかりの子猫を崖からほうり投げて殺すことは同じ事だと認められますか?
M:彼女は文化における「共生の倫理」みたいな問題を、提示したかった訳でしょう。あの文章自体が一種の「パフォーマンス」ということになる訳で。だから全くの作り話かもしれないし、そうじゃないかもしれないけど、「パフォーマンス」自体に賛成も反対もないです・・・

Q:「パフォーマンス」ですまなくなっている感じですが。
M:結局、坂東氏は、今の日本は死の隠蔽により、生の尊厳が失われてしまっていて、その帰結として凶悪事件の低年齢化とかがおきているとか、そんなふうなことを考えているんじゃない?曖昧な表明にとどまっているけど。
Q:それは通りませんよ。
M:まあ、通らんけどね(笑)

避妊と子猫殺しの論理
Q:「死の実感」と「生の充実」をリンクさせて、「避妊手術」と「子猫殺し」をクロスさせようとしていますが、このへんが問題のポイントになっている感じがしますね。
M:文化というのは、死の遮断に関わってくるというのは確かな事実。そこには、連続性の切断と断片化、そして排除のプロセスが必ず存在する。ハンバーガーを食べる時、牛を育て、殺し、調理する一連のプロセスは、それぞれ分解されて、我々の知りえない時間と場所へ排除されている。

Q:しかし「避妊」と「子猫殺し」は等価ではないでしょう?
M:もちろん、産まれさせない処置と、産まれたものの処置は等価ではない。しかし「死の遮断」あるいは「生の管理」という抽象化された観点からは、同じであるとも言える。

もし避妊治療をさせず、子供が生まれて、それを育てられず、貰い手も見つからなければ、どうするか?殺すのがいやなら、捨てるしかない。捨てられた猫がたどる運命は、拾われない限り、その場で衰弱して死ぬか、野生化するか、保健所が回収し、処分するかだろう。自分の手を汚さなくても、結局は他者、あるいは自然の手にゆだねるだけだ。

Q:それはおかしいんじゃないですか。だからと言って、殺さなきゃならない理由にはならないじゃないですか。まだ捨てるほうが子猫にとっては、幸せでしょう?生存の可能性がゼロではない訳ですから。何故、自分の手で殺さなきゃならないんですか?その理由が何度読んでもわからないですね。
M:いや、坂東氏がおかしいのは初めから分かっているわけで、この人にとって「子猫殺し」は、自分が文化や文明というものを媒介せずに、自然の連続性の中に存在しているということを想起するための、完全に個人的な「儀式」にすぎない。

自然の中において、「生」のもつ直接性を生き、その痛みや悲しみ、罪深さ、尊厳そしてその豊穣さを、ありのままの形で受け止めている、ということを確認するために、「子猫殺し」という儀式が必要なんだよ。子猫は彼女の観念上の宗教劇における、サクリファイスにすぎない。

だからその行為は、異なるコンテクストを生きる人にとって、残酷で無意味なパフォーマンスにしか思えない、というのがあるのだろうね。坂東氏からすれば、自然に対する人間のコントロールの「罪」みたいなものを、「子猫殺し」という痛みとともに確認しつづけることが、より「健全」で「倫理的」なんだ、という発想があるんじゃないのかな。


自然と文化
Q:それは倒錯ですよ。文化を媒介せずに、自然の直接性を生きるなんて、それ自体が「文化的」な発想じゃないですか?
M:そうだと思うよ。しかしそう言ってしまえば、エコロジーだってロハスだって、みんなそうだよ。でも、だから全然ダメだということにはならないしね。ただ彼女は「子猫殺し」を媒介として、「都市から排除された死」を回帰させることが可能だと思っている。でも、それ自体「人工的」なものだから、そこで回帰してくるのは「死」の観念に過ぎない。まあ、彼女なりにいろいろ真剣に考えての結果なんだろうけど、パフォーマンスというよりも事後的な解釈というような感じもするね。

Q:人騒がせですよ。
M:でもね、坂東氏が提起した問題は、やはり一考に値すると思うよ。猫の避妊手術とか、正直、好きではない。というか、もう少し踏み込んで言うと、ある種の恐怖を感じる。結局、文化による自然への介入は、歴史的には動物だけでなく、人間に対しても起きてきたでしょう。「纏足」であるとか、「宦官」であるとか、自然を変形、加工させていく流れというのは確かにあって、そういう流れの中に猫の避妊手術も位置付けて考えてしまうと、やはり抵抗がある。

Q:そういうことを言い出すと、競馬におけるサラブレッドであるとか、犬の様々な種類なんてみんな、人工的なものですよ。ブロイラーだって、神戸牛だって、そうでしょう。
M:いや、文化というのは当り前だけど不「自然」なものなんだよ。ボディービルにしたって、他のスポーツ競技のアスリートにしたって、それ自体よくよく考えてみれば不自然極まりないものでしょう。

Q:美容整形とかもそうですかね。
M:文化というのは、一種の「形式」だから、要求される時代の形式に当てはめていくために自然を変形させていく訳でしょ。「美」という「形式」だったら、それに向かって自分を変形、加工していく事になるわけで、そこから美容整形やらダイエットやらスキンケアやらなんやらが派生してくるわけだから。

Q:猫の避妊と話がずれてきたような・・・
M:いや、猫と共生するってのは、求められる共生の「形式」が、時代によって変わってきていることに応えていくことだから。昔は、道は舗装されていないし、犬なんてウンコし放題だし、道歩いててウンコ踏むのは当り前みたいな時代があったでしょ。道も土だから、ほっとくと自然に分解されるから、あんまり問題視されなかったのよ。問題になってくるのは、道が舗装されて、いつまでたってもウンコが残るようになってからですよ。猫のおしっことかも同じ。都市化されていく過程で、犬や猫の排泄が「問題」として成立するようになってきて、避妊というのもその過程で、より大きな意味を担うようになってきたような気がする、もちろん、それだけとも言えないけどね。解決策としては、野良猫とか、野良犬をなくしてしまえばいい訳だから、保健所による捕獲と安楽死、家猫は避妊をして出産をさせないようにする。するとブリーダー>家というルートだけで犬や猫の生が管理されることになる。野生の犬や猫は、基本的にはデリートされていく方向にある訳で、猫の生存圏が都市の変化とともにより限定的になってきている、ってことだよね。

Q:うーん
M:よく、街で「猫に餌やらないで下さい」って張り紙とかがあるけど、やはりあれは近所の人は凄く困るみたい。猫がたまってしまうから、尿の匂いとか凄いらしいのよ。そうすると保健所の出番なのかもしれないけど、それもやでしょ、結局、マンションの中の去勢猫というのが、今の猫のスタンダードな一生でしょう、全部というわけじゃないけど。しかし、こうしたあり方をみんなが納得している訳ではないから、坂東氏のエッセイが過剰な波紋を呼ぶというのはあるんだろうと思う。
Q:痛いところを突かれたと。
M:というより、「そんなこと言われなくても分かってるわよ」、というのがあるんだと思う、でも「今はそれしかないのよ」、というのがあるんだよ。しかも坂東氏はさらに、あてつけみたいな「子猫殺し」で煽るから、騒ぎの収拾がつかなくなる(笑)

未来の猫たち、あるいは人間たち
Q:文化が自然を形式化していくものだとするならば、未来の猫たちもさらに変化していくんでしょうか?
M:遺伝子工学の発展とかをSF的に膨らませて想像してみると、未来の猫たちはウンコもオシッコもしない、性器も持たない、発情しない、生殖能力のない猫に改良されているかもしれない。

Q:さすがに、ウンコやオシッコをしないというのは無理でしょうね。いい匂いになるとか、無臭というのはあるかもしれませんけど。それはクスリとかで、もうあるかもしれません、猫飼ってないから知らないですけど。
M:思考実験だから、その辺は突っ込まないで(笑)、何が言いたいのかというと、猫みたいな動物が、人間との共生を前提に様々に改良されていくよね、その過程でふと、「あなたは私と一緒に暮らして幸せですか?」という問いを発してしまう。この問いはしてはいけいない問いなんだけど、同時にせずにはいられない問いでもある。ソープランドに行って、私がお客でいいですか?って問い掛けるのと一緒だよね。

Q:どこが一緒なんですか(笑)、だいたい意味が良く分からない(笑)
M:こういう問いの真ん中に、今回の坂東氏の問題提起が直撃したんだと思う。避妊がやがて来る子猫殺しの予期の上に成り立っているのなら、それは未来の先取りだろうし、それをさらに先取りするなら初めから生殖能力をもたない、改良型の猫がやがて現われてくると考えることもできる。そうすると、
生殖能力のない改良型の未来猫>避妊手術を受けた猫>産んだ子猫を崖から投げられる猫
となるわけで、この三種類の猫は未来>現在>過去を象徴していると仮定すると、完全に分かれているわけではなくて、折り重なっている。そして三種類の猫の共通点は、子孫を残せないように管理されている、ということだ。それを前提にして、三種類の猫が存在するとしたら、人はどの猫を最も幸せな猫だと考えるのだろう?そして未来に向けて変化していく「猫」は、果たして本当に「猫」と呼べるのか?という問題もある。坂東氏はそういう意味ではまさに、反時代的なパフォーマンスとして猫のアーキタイプみたいなものを想定して、そこにこだわろうとしたのかもしれない。しかし、そうした発想自体が、恐ろしく時代錯誤的なんだけどね。


Q:猫だって、生き延びていくために、人間との共生を選択した部分もあるでしょう?その過程である種の改良を受け入れてきた、というかそうせざるを得なかった部分もあるわけで、それでも猫はやはり猫だと思いますよ。
M:そうすると主体性の問題も出て来るよね。産んだ子供を片っ端から殺されているなら、もう坂東氏とは一緒に暮らせない!って家出してもいい訳だから(笑)、でもやっぱり一緒にいるわけだからね。

Q:猫の認識でも、産んだ子が姿を消すのは不思議なはずです、でも、すぐ忘れちゃうのかもしれないですね・・・
M:結局、猫に対して「あなたは私と一緒に暮らして幸せですか?」と問うことは、決して答えてもらえない問いを発することでもある。その問いがどんなに偽善的なものであったとしても、その問いそのものは我々のある種の「罪の意識」みたいなものからやってくるのは確かだろう。猫はブリーダーによって生産され、ペットショップの覗き窓の中で育ち、買い手が現われるのを待つ。そして飼い主とともに、マンションなり、一戸建ての家なりに移され、去勢手術を受けて、その一生を終えるだろう。そこには選択の余地がないわけだからね。結局、そうした不毛な問いに、過激に答えようとすれば、今回のような混乱が起きることになるだろう。それでも、問いそのものをパフォーマンスと切り離して、考えてみる価値は、やはりあるんじゃないだろうか。
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by SpeedPoetEX | 2006-09-01 01:22 | 政治