1 2006年 08月 03日
■心の問題
世襲における最もデリケートな問題は、スタッフの心の問題だろう。いったいジブリのスタッフは宮崎監督の長男というだけで、全くの素人が「ゲド戦記」という大作の監督に抜擢されるという事実をどう受け止めたのだろうか?この一点だけ、つまりスタッフの「内面」の問題だけでも、今後のジブリの内紛の火種となりかねないと私は考える。 もちろん鈴木プロデューサーは可能な限りの緻密な根回しをしただろう。公式サイトにアップされているインタビューで鈴木プロデューサーは、高畑、宮崎両氏が老齢に差し掛かり「スタジオを閉めてもいいかと思っている」などとかなり「脅迫的」な発言をしている。これをスタッフに直接言ったとは思えないが、ジブリ内部に後継者問題をめぐってかなり微妙な空気が蔓延していることを感じさせる。 ■驕り 一番疑問を感じるのは、吾郎氏の判断である。素人である自分が、明らかに「親の七光り」と解釈されるであろう監督抜擢を簡単に受けてしまう心理が私にはわからない。それだけ自信があったということだろうか?制作スタッフをまとめ上げ、作品のクオリティーをジブリの作品として恥ずかしくないレベルに維持できるという確信が。それは鈴木プロデューサーにも言えることだ。監督が素人でも、世界最高水準のスタッフが脇を固めればそれなりに作品として成立すると考えたのだろうか?あるいはジブリの既存のスタイルを押し広げるような斬新な創造性を、新しい血を輸血するように導入できると考えたのだろうか?もし、そうだとしたらそれはアニメーションに対する「驕り」以外のなにものでもない。この点に関しては、理解に苦しむとしか言いようがない。 ■背景には遺産継承問題? 前回、ゲド戦記に限定した吾郎氏の世襲監督の意味を探ったが、もう少し大きなパースペクティブからこの問題を考えてみると結局、こうしたなりふりをかまわない異常な人事が起きた背景には、宮崎駿監督の遺産継承問題があるのではないだろうか。鈴木プロデューサーがポスト宮崎(65歳)・高畑(70歳)後を睨んだ組織運営を考えているのだとすると、まず考えておかなければならないのは宮崎監督作品の著作権の管理と継承である。組織の中心的な人物の死去とその後の遺産継承をめぐるごたごたは、鹿内ファミリーとフジテレビの抗争、大山倍達死後の極真会の分裂騒ぎなど、枚挙に暇がないほどである。この辺はジブリの内部でどうなっているのか私には知る由もないが、際立った後継者が現われない限りかなり長い期間、宮崎監督作品の利子に依存した組織運営がなされていく可能性が強い。もしそうであるなら、宮崎監督の親族がジブリ内部にいない体制では、ジブリ存続のための路線を敷く上で不安定感はぬぐえない。もし、宮崎監督の死後、監督の作品の権利をめぐってジブリと親族が法廷闘争を繰り広げる可能性も完全にないとは言いきれないのだ。 ■理想的な継承の形は別にあったはず だとするならば、鈴木プロデューサーが吾郎氏を絶妙のタイミングでジブリ美術館の館長というポストに就けたと言えるのだ。つまりジブリ内部に宮崎ファミリーを引き込むことによって、ポスト宮崎を睨んだ安定した組織運営の構築に着手したということになる。円谷プロダクションのような形にはならないとしても、それなりのポジションに招き入れ、ジブリの未来向けたヴィジョンを明確にしようとしたわけだ。理想的にも現実的にも宮崎吾郎氏は、宮崎「監督」の後継者であるよりも鈴木「プロデューサー」の後継者であるべきだったのだ。そうであるなら、何の問題も発生しなかったはずなのだが・・・ ■
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by SpeedPoetEX
| 2006-08-03 00:21
| アニメ・漫画
2006年 07月 31日
■「サヨ」としての宮崎駿
「宮崎はサヨ」、こうした物言いが2chの関連スレで半ば常態化した現在では、あえてこの指摘自体に反応する人は皆無ではないだろうか。この常態化した「事実」を前提として、宮崎氏の行動を批評的に解釈していくことも違和感のないものとなっている。最近、公開されたばかりの宮崎氏の長男である吾郎氏が監督した「ゲド戦記」の評判が芳しくないが、その背景として、「サヨ」の「世襲」に対する違和感と、「素人」が「大作」で「初監督」として「デビュー」してしまう違和感が重ねあわされ、作品の評価に大きな影を落としていることは否めない。 ![]() 私は「ゲド戦記」を見ていないので、この作品について語るつもりはない。しかし、ジブリが「ゲド戦記」を手がけると聞いたときの軽いショック(よく考えれば、「サヨ」と「フェミ」は親和性が強いけど)と、それを長男の吾郎氏が監督すると聞いた時の二重のショックで、この作品に対する興味は早くから、かきたられていた。 そして、そこには三つのポイントがあった。まず、世襲だとしたら、普段のインタビューで言ってたことってなんだったんだ、という違和感。次に、長男の吾郎氏という人物に対する興味。最後に、作品として成立するのか、質的にもビジネス的にも、という心配だ(大きなお世話だが)。 最初の疑問に関しては、吾郎氏を監督に推したのは鈴木プロデューサーだったこと、宮崎監督は反対したということが判明した。次に、吾郎氏はアニメに関しては素人で、元ジブリ美術館館長であったこと、そしてもともとジブリとは関わりのなかった吾郎氏を引き込んだのが鈴木プロデューサーであったことが分かった。そして公開された作品は、評価自体は微妙だが、ビジネスとしては成功しそうだということが分かってきた。こうした、現時点で判明した事実から見えてくるものは、「世襲」劇を背後で取り仕切ったのが鈴木プロデューサーであったという事実の持つ「意味」である。 ■鈴木プロデューサーの思惑 鈴木プロデューサーには「素人」監督をデビューさせなければならない、いくつかの理由あるいはメリットがあった、と私は考える。一つには「もののけ姫」で一度は引退宣言をした宮崎監督が、ジブリ存続のために引退を撤回し、連投を続けて疲労の極みにあったことだ。評価にも若干のかげりが見え始めたところで、宮崎監督に一息つかせ、回復のタイミングを計りたかったというところだろう。次に、近藤喜文氏の突然の死去によって一気に浮上した、「ジブリ王国」における「後継者問題」に対する回答を示さなければならない時期に来ていたことがあげられる。最後にビジネス。「ゲド戦記」はそれ自体、日本では大きな知名度を持っているとはいいがたい作品だ。さらに監督が宮崎駿でないとしたら、商業的な成功を確定させるための柱をどこに求めたらいいのだろう?ジブリ作品の興行成績をベースに考えると、ある種の話題性つまり「仕掛け」が必要になってくる。そこで「宮崎駿の長男」という「仕掛け」が効いてくる。当然、「世襲」の問題が論争の的になるだろうし、日本人的なメンタリティーは「親子鷹」として、映画の背後に別種の「家族ドラマ」を見るはずだ。こうした「仕掛け」は、作品を超えた別のレベルでの作品の訴求力として、十分に商業的な機能を果たしたと言えそうだ。しかし、ここには当然リスクも存在する。 ■
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by SpeedPoetEX
| 2006-07-31 03:10
| アニメ・漫画
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